はいさいぐすーよー!ちゅーうがなびら!
うるま市選出、沖縄県議会議員の照屋タイガです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

本日は、公私ともにご多用の折にも関わらず、玉城デニー知事をはじめ、このように多くの支持者・支援者、市内外から駆けつけて頂きました関係者の皆様方にご臨席を賜り心から感謝を申し上げます。
私「照屋タイガ」は、昨年12月25日、うるま市政野党の市長選選考委員会より正式に出馬要請を頂きました。この間、私を政治家として、これまで支え、育ててくださりました後援会の皆様に私の政治信念を伝え、ご相談するなかで、「故郷(ふるさと)うるま市の地域の皆様の声に応えていきたい」という強い決意を固めました。
あらためまして、本日ここに、来る4月27日投開票予定のうるま市長選挙への出馬を正式に表明致します。

市政20年
うるま市は、今年で市政20年の節目を迎えます。先日も盛大に成人式がおこなわれ、市をあげて新成人の新たな門出を祝いましたが、彼らは、うるま市誕生と共に産声を上げた子どもたちです。
私・照屋タイガは、たくましく成長し、20歳を迎えた新成人が、夢と希望をもって働き、家庭を築き、安心して子育てできる街を、市民の皆さんと一緒に作りたい。その思いで、来る4月27日投開票予定のうるま市長選挙に挑戦します。
1/86の乱
さて、私は、2002年に旧具志川市の市議会議員として議員活動をスタートさせましたが、議員としての最初の大きな仕事が、旧4市町による合併協議にともなう決議でした。行財政改革やスケールメリットが強調される中での4市町合併となりましたが、誕生したうるま市議会は86名のマンモス議会となり、市民から合併の趣旨に反するとの批判を受け、リコール運動が展開されました。
私は、合併決議に携わった当事者として、膨れ上がった市議会の1議員として活動を続けることはできないとの判断に至り、辞職し、1人の市民としてリコール署名の運動に参加しました。当時、私のとった行動は、マスコミ報道等を通じて「1/86の乱」と称されましたが、決して「1人」ではなく、数えきれないほど多くの仲間の市民と一緒でした。民主主義や地方自治を肌感覚で学んだ、あの時の体験は、今日まで私の政治家としての「原点」であり続けています。

低投票率
全国的に選挙での低投票率が問題視されて久しいですが、ここ数年で沖縄でも顕著になってきました。有権者の2人に1人しか投票しない中で、自分たちの暮らす街づくりや国の行く末を委ねる政治家を決めてしまっている現実に大変な危機感を持っています。
私は、今度の市長選挙自体を市政運営の第一歩、「まちづくり」の一歩目にしたいと考えています。候補者の経歴や人柄、政策をじっくり読み比べて1票を投じることも大事です。もう1歩踏み込み、市長選挙そのものに市民として参画をしてもらう。選挙を通じて社会との関わりや民主主義、地方自治というものを体感してもらう。生きづらさを克服するために、暮らしを豊かにするために、自分の生活に何が足りないのかを照屋タイガと一緒に考えてほしい。
私が合併リコール運動で体験したあの感覚を、次世代を担う若者にも繋いでいきたい。そのような思いで「まちづくりのための選挙」を市民と一緒につくりあげてまいります。

戦後80年
沖縄は戦後80年という大変重要な節目を迎えました。昨年、石川のゴルフ場跡地への陸上自衛隊訓練場の建設計画は、市民みんなの力で跳ね返し、撤回に追い込みましたが、決して油断できる状況にはありません。
勝連分屯地へのミサイル配備、辺野古新基地建設のための宮城島からの土砂搬出など、国防の名の下に故郷うるま市は国策に翻弄され、常に狙われ続けています。
基地あるが故の事件事故、爆音被害、PFAS汚染など基地負担は軽減するどころか、増す一方です。米軍人・軍属らによる女性への性暴力事件の報道に接するたびに、うるま市で発生した2016年の痛ましい事件を思い出さずにはいられません。
まちづくりには平和という土台が必要です。また、市民1人ひとりの安全安心なくして市政運営は立ちいきません。県議から市長、議員から首長へと立場が変わったとしても、政治家として平和や人権に対するスタンスを変えるつもりは全くありません。その点だけは、これまでも、これからも決してブレることはありません。
相手が国であろうと毅然とした態度で主張してまいります。
安全保障は国の専管ではありません。私は、市民・県民の命とくらしを犠牲にしている現状を変えていく必要があると考えています。
「戦後80年、沖縄を二度と戦場にさせてはなりません」
勝連分屯地・ホワイトビーチ原潜寄港・津堅島パラシュート降下訓練・PFAS汚染・女性暴行事件など全ての基地関連の事件事故に対して明確に反対します。
国言いなりの立場では市民の生命と財産を守ることはできません!
日米地位協定の抜本的な改定、「日本国内法を徹底遵守」を求めます!
県と連携して「平和で誇りあるうるま市の平和行政」を進めていきます!
戦後80年に関連して、当時を振り返ったとき、私たちのうるま市は、戦後復興に尽力した志喜屋孝信さんらが「沖縄諮詢会」(おきなわしじゅんかい)を発足させ、琉球政府の行政の基盤がつくられました。
また、ハワイに移住したウチナーンチュたちは、故郷の食糧難を救いたいと募金で集めたお金で550頭の豚をアメリカ本土で購入し、7人のハワイのウチナーンチュが太平洋を渡り、ホワイトビーチへと届けました。この豚たちが当時の食糧難を救い、今も豚が沖縄の伝統的な食文化として受け継がれることにつながりました。
まさに、私たちのうるま市は、沖縄の戦後復興の中心地でありました。
私は、そのようなうるま市を誇りに思っています。

議員活動
最後に、個人的なことも踏まえて、私のうるま市に対する思いをお話させてください。
2002年、31歳のときに旧具志川市議になって以来、うるま市議、県議会議員として活動してきました。早いもので23年目を迎えています。
議員活動を続けながら妻と二人三脚で3人の男の子を育て、両親の介護も経験をしました。与勝高校を卒業した長男は今年で21歳、県外の大学に通い、同じく与勝高校に通う高校3年生の次男は大学受験の真っ只中、中学1年生の三男坊は具中で野球を頑張っています。3人とも少年野球の頃から白球を追い始め、長男と次男は高校3年までやり遂げました。
私の議員活動は、子育てとの両立の20年間でもありました。時間の許す限り送迎をし、子どもたちの野球の応援を通じて保護者の皆さんとの関係を築き、また、地域での活動を通じて見聞きした課題を政治へと繋いできました。
これらの多くの皆さんの支えがなければ、私が議員として働くことはできませんでした。
2008年に県議会へと送り出してもらってからは政党政治の真ん中を歩んできました。諸先輩方に指導や導きをいただきながら決断力や胆力(たんりょく)、将来を語る構想力など、政治家として必要な素養(そよう)を学べたことは感謝に堪えません。
昨年の衆議院選挙で、自公与党が過半数割れをし、国会の状況は様変わりしました。2008年に私が県議になった時には県議会の構成も野党多数へと変わり、国政にあっては自公から民主・社民・国民新党への政権交代がありました。
県政においても、いわゆる保守県政といわれた仲井真県政からオール沖縄の翁長県政へと転換し、その遺志は今の玉城デニー県政へと継承されています。
このように、政権交代することによって、民主主義は成熟し、県民と市民のための行政運営が行われていくと考えます。
ところが、うるま市だけは誕生以来20年間、ずっと保守市政のままです。
偏った政治体制は、政治の停滞を招き、市民を置き去りにします。
今まさにうるま市政に求められているのは、市民の目線で市政運営することです。
「市民のため、できるところから進める」
私は、物価高に苦しむ市民の生活を守り、うるま市発展のため、公正・公平・透明性のある市政運営を行うことを皆様にお約束いたします。
この度の市長選に挑むにあたり、大きな決断と覚悟を持って、うるま市民へより具体的な政策を訴えていきます。具体的な政策はこれからです。
これから多くの市民の声を聞き、優先順位をつけ、市民が今すぐ必要とする政策を今後発表していきます。
私と一緒に「新しいうるま市、希望に満ちたうるま市の景色」をつくっていきましょう。
どうか皆様、最後の最後までのご支持とご支援をよろしくお願い申し上げます。
照屋タイガと一緒に「立ち向かい、未来をひらく」「市民と一緒に新たな一歩を!」
今日この場に集まってくださった皆さんや多くの仲間と「一緒に一歩を」との決意で、4月のうるま市長選に挑戦します。
どうか皆様、最後の最後までのご支持とご支援をよろしくお願い申し上げます。

いっぺーにふぇーでーびる!
ぐすーよー!まじゅん、ちばらなやーさい!
2025年1月18日
照屋大河
